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【 魔王エンド2[魔王様の小鳥] 】



結局――
魔王リンドヴルムは姫であるティト・ブルーを手離す事は無かった。
否、手放すことが出来なかった。


* * *


姫は魔王にとって、
初めて魔王の本当の姿を見て嫌悪しなかった者であり。
無条件に好意的な反応をしてくれた個人であり。
初めて触った存在で暖かくて柔らかい存在であった。

そんな彼女は彼にとって脆く壊れやすい生き物で。
悪意も知らず不愉快な者に利用されてしまう存在で。
守って保護しなければならない対象であった。

美しく透明に澄んだ泉の様な姫を不浄なものから遠ざけるように。
陰惨とした瘴気溢れる魔国リンドレク――特に魔王が住まうリンドレク城が、彼女に似つかわしくない事からは竜は目を逸らしたが。
それでも貴重な彼女を守りたい気持ちはたしかに本物であった。

耳を塞ぐ、目を縫い閉じる代わりにリンドヴルムは綺麗なもの、好ましいと考えたものを彼女の周りに置いた。
姫の世話係に、日頃持て余していた道化師猫しか彼女を傷付けそうにない風貌のましなものがいなかった事に苦笑する。

魔障石から発生する瘴気を、清浄な水晶が取り込んで綺麗な空気にしてしまう様に。
相殺用のモノを置いておけば、醜い竜の己が彼女の蒼い瞳に映り込んでも許してもらえるのだと信じて。

己の姿に関しては見てくれ外面を人間に模倣する魔法が脳裏に浮かばなかった事もない。
しかし人里から隔離して孤独にしておいて、成り代わるように年頃の同種族に化けて姫の気を引くような破廉恥で恥知らずな事は、潔癖な魔王には出来なかった。
だから黒竜は姫の前に有るがままの姿で現れた。
それは無意識の下等と思う生物に寄り添うつもりが無いという最高位の種族である竜の放漫さを孕んでいた。

無論ティト・ブルーはそれらの事をしなくてもリンドヴルムを受け入れてくれる。
その事を魔王はもう既に知ってはいたが、ある種迷信じみたまじないは続いていた。
竜の選んだ美しい装飾や衣を竜に懇願されるまま身に付ける姫を見て竜は満足し顔を綻ばせた。

魔王が姫を閉じ込めている事実に彼女はもう何も言わなかったし、触れなかった。
だからリンドヴルムは安心してティトを自身の手元に置いておいた。

拒絶されぬ世界。
魔王にとって満ち満たれる時間で、優しく綺麗なものを詰めた小箱だった。


しかし。
そんな幸せは長くは続かなかった――


* * *


王都から少し離れたフォレストソイル中央に位置づける巨大建造物。
石灰色の建物は厳かな雰囲気を漂わせている。
戦争終焉後に富国を主とした各国の援助資金によって建設された構築物だ。
広大で屋根が高いのは竜の様な巨大な人間外の種族の訪問も想定した創りだからであろう。

そこで本日は大国の責任者等が集まり国際間の会議が行われていた。
国境の話。魔石や工業製品や作物の輸出入の話。大陸外の国との貿易の話。
そしてその片隅に土国の姫の誘拐の話。

この所頻度の多い会議は議題が変わらぬためかいささか精彩を欠いたもので。
最初に議題として挙げられた時は万全の態勢で臨んだ誘拐の話も、情報の無さから回数を重ねる事に弛緩していった。
会議の聴講中、当事者の魔王が素知らぬ顔で頭の中で姫への土産についてぼんやり考える位に。

会議間の空き時間。
漆黒の影で姿を隠すリンドヴルムがいた。傍らには着込んだ馴染みの仮面の従者の男が佇んでいる。
末席の魔王の周りには彼以外居ない。寄り付かなかった。

そんな竜の影の近くに、会いたいとも好ましいと思えぬ珍客が訪れた。

「いやはや。探しましたぞ、リンドヴルム魔王様。お元気ですかな」
「……汝か。ホーグランド国王陛下」

富の国、豊作の国ホーグランドの国王だ。親衛も他も従えぬ富国の王は珍しい。
「会議の貴重な休憩時間を使って我の元に訪れるとは何用であるか」
魔王は訝し気に国王を見下ろしたが、恰幅の良い男は気にせず仮面の男の方に顔を向けた。
「ちょっと、そこの仮面のキミ、少し席を外してもらう事は出来るかね?」
「……承りました」
人の目のある国際会議中だ。魔王に対し王が妙な振舞いはしないだろうと踏んだ側近は素直にその場を離れた。

「魔王様はいつもどこでも同じ従者を連れてますな。魔王様の『お気に入り』とやらですかな、あれは?」
「……」
仮面の男が立ち去った方向に指をさし意味深けに王が笑う。
竜は何も答えず影の中で睨みつける。澱みの様な黒影が揺らめく。

「まあ、そんな話は今はいい。ふと、ちょっとした事を魔王様にお話したく思いましてな」
「……? 今更我に歩み寄るつもりか? 汝も殊勝な事を言うのだな」
「ふと思い立った、ちょっとした昔話」
「……」

「10年以上の歳月を掛けて青い小鳥を人工的に作った話を」

その言葉を聞いた瞬間、脳裏にある存在の姿が浮かぶ。
竜の心臓が嫌な音を立てて波打った。

「風切羽を切り落として、空を覆い隠し、仲間を遠ざけて、そうする事で眼前の前の者に疑問を持たず受容し癒してくれる小鳥を育成する――」

「あの頃は前国王も存命で次期国王としての重圧がなかなかしんどくてなぁ。せめて慰めが欲しいと思い丁度良いモノが手頃にあった事もあって、そんな計画を思いついた」

「元々は2年前、16歳の彼女を引き取る予定だったが、心を壊してしまったから少し療養すると連絡を受けた」

「本当に可哀想な事をしたと、流石に当時は思ったものだね」

「完成したのは美醜すら解らぬ意思を持たぬ、全てを受容し――何も受容しなくなったと言うことにも等しい無垢な人間」

「実に哀れな少女だ。一方的に消費されるために生まれた」

「そんなつまらぬモノを所望する――結局ワシもまた悲しい哀れな男という訳だ」

青髪と深く蒼い瞳を持つティト・ブルーの話だと魔王は悟った。
己に探りを入れるための発言だとも解っていた。質の悪い挑発だ。
けれど彼から紡がれる話に薄ら寒くなる動悸と震えが止まらない。

「我に汝の汚点を話してなんとなる? ……汝は露悪趣味という奴なのか」
本来ならば隠し、飲み込んでおく様な薄暗い暗部を何故この男は己に吐露するのか。

「ふと思ったのだ。もしも誰にも愛されぬ醜い者が何かの拍子にそれに出会ったら、どんな反応をするだろうと」

「そうとも知らず囲い込むほど夢中になる痴れ者がいたらさぞ愉快でしょうなぁ? そう思わないかね、リンドヴルム魔王?」
影纏いの外套で悟られないだろうが、人ならば青褪めているであろう己の顔を覗きこもうとしてくるのが酷く不愉快だ。

「小鳥に愛してるよと教え込みそれにすがって生きるのも、またそれはそれで一つの幸福でしょうな――」
口から漏れ出たのは醜悪な嘲り笑いだった。

何とか取り繕った会話の後の事は真っ白となり覚えていない。


* * *


深夜。
国際会議から帰城する魔王を待ちくたびれた私が諦めて就寝の準備をしようとしていた頃。
戸口の鍵が空く音が聞こえた。

「……リンドヴルム? 帰ってこられたのですか?」

部屋に訪れたリンドヴルム魔王の様子は私から見てもどこか様子がおかしかった。
酷く怯え、心底恐ろしいものを見たようであった。
その巨体が小さく縮こまってしまったのではないかと一瞬錯覚するほどに。
彼は震えながら私の目の前までそのまま無言で這い寄った。

「どうされました?」
「ティト」

「我に愛していると言ってくれぬか――」

私は小首をかしげながら聞いた後に、
言い淀みながら魔王は思いつめた表情でそう言うと真剣な目で見つめた。
切羽詰まった様な、低く重い悲しそうな竜の声色だった。

「……」

私は魔王の表情の薄い顔から滲む悲しそうな感情を読み取ってしまうと、切なくなる。
目の前の竜が悲しむから、とうとう私は帰りたいという言葉も言わなくなってしまった。

魔王は不安で手の中に抱える人形や毛布を必死に握りしめる子供の様だと思う。
その光景を私は追憶の中で記憶し、知っている。
だから振りほどく事が出来ない。

しょうがないなぁ。
りんどーちゃんは――

たまに零れるリンドヴルム魔王に対するキットン・ソックスの愚痴がふわりと脳裏に浮かんだ。

そう。この竜は悲しいほどに子供なのだ。

だから空想のなにかに怯える子供を安心させるように。
置いていかないよ。大丈夫だよ。何故怯えているの?
だけれども子供と交流した事の無い私は適切な言葉を持たず紡ぐことが出来ない。
そんな言葉の代わりに彼の求めている言葉を。

「あい、してるよ」
ほんの少し照れて俯きながら、その言葉を私は贈った。


「……そうか。そうだろうな」


長い沈黙の後に魔王が呟いた。
冷たい感情の無い声だった。
私は思わず魔王を見上げる――そして彼の表情に私は息を呑み言葉を失った。

彼の竜胆色の瞳は色が抜け落ちてしまった様に霞んでいた。
竜の瞳から漏れ出る感情は、何処か壊れてしまっているような危うさがあった。


* * *


「我に愛していると言ってくれぬか――」
どうしようもない焦燥感に駆られる。
彼女に向けて紡いだ所望の言葉と裏腹に、我は彼女へその言葉への否定を求めた。


答えてくれるな。
拒絶してくれ。
否定してくれ。


そうすれば汝の否定にその回答に絶望はするが、安堵する。
汝の意思の、心の存在を信じられる。

だが――
彼女から紡がれた言葉は――


嗚呼。
そうか。そうだろうな。
極めて簡単なカラクリだった。
汝は初めから壊れていたのだ。
完膚なきまでに潰れていた。

彼女は我を
受容しなかった。

これは喪失だ。
期待し所望し手に入れたと錯覚してしまったから感じる底の無い絶望。

手の中に大事に抱えていられると考えていたそれが。
握り締めた手から砂の様にすり抜けていく。


心の奥底で醜い竜が、どこぞの王の様に醜く醜く己を嘲笑った。


* * *


それでも、それでも彼女を手放せない。
嗚呼……我は頗る浅ましい。


* * *


魔王の心を曇らせ黒く澱ませたまま徒に時間が過ぎ、次の国際会議が開催された。

心模様の様な雨の降るフォレストソイル国。
湿気を多分に含んだ空気は重く、辺りは閉鎖的な灰色の雲で覆われている。
雨音響く巨大建造物の中、リンドヴルム魔王は定位置の隅で影纏いの外套の発生させる影に浸るようにひっそりと潜んでいた。
広々とした建造物の底。座席の配置から見てもこの場所はその気になれば劇場の用途にも使えるのかも知れない。
近くには仮面の側近がおり、普段の着込んだ服装と装飾の上に更に露払いの深覆い付きのコートで身体を覆っている。
辺りに人がおらず行儀作法にはまだ触れていないだろうとはいえ、雨に濡れぬ場所でも外していない辺り己と同じく無意識に自身を更に深く隠そうとしているのかもしれないと魔王は思った。

「最近顔色が優れないようですが」
「……大丈夫だ気にするな」

そうですかと、痩身の側近の男は姿の見えぬ影を心配そうに見上げた後、深く追及せぬように移動の影響だろうと結論付けた。
近頃は本当に国際的会議が多い、と。

「これほど急な会議が頻発するとほかの国務に支障が出ます。近々空間転送術で短縮する予算立ても考慮に入れなければなりませんね」
「……ああ」
「それにしても、今日は天候の影響なのかまだ他の国の要人は到着してない様で。客用に用意された護衛が居るだけのようですね……数が多いですが」

二人が雨音に静かに耳を傾けていると、プツリと糸が切れたように大馬車に紐付けしていた感覚が途切れた。

「おや。馬車の気配が」

首を傾げ様子を手繰る横の男に訝しげに魔王は顔を向ける。
遠くからぱたぱたと慌てた様子でフォレストソイルの護衛らしき男が、側近に駆け寄ってきた。

「先ほどトラブルがあった様で……少々宜しいですか」
「何かあったのでし――」

次の瞬間後ろに側近の男は引っ張られ引きずられ、魔王から離れた所で組み伏せられた。

それと同時に八方から武器を装備し武装した兵士がなだれ込んで来る。
側近を人質に取られ、徒に荒立てぬように後退した魔王の影は建物全体の中央へと追い立てられた。

「ああっ、魔王様っ!! 貴方達、な、何故こんな乱暴な真似を…っ!?……くぅっ!? 」
離れた所で屈強な兵士に腕を後ろ手に固定された側近が呻くように声を上げた。

「一体、何事だ」
揺らぐ闇の中でリンドヴルムは苛立ちげに側近を捕らえた兵士達を睨めた。
「しらばっくれるな魔王っ!! 卑しい人攫いめ!」
「魔王! 観念しろ! 姫様を帰せっ!」
剣の切っ先が向けられ、あちらこちらから竜に向かって野次や罵声が飛ぶ。

「……五月蠅い」
激高した燃える炎の如く繕う黒い闇を大きく拡大させ低く唸ると、鍛錬した兵士が烏合の衆に見えるほどたじろいだ。

「たかが駄竜の魔王風情に対し、一体何をしているのかね」

場の構造のせいかその高齢の男の声は妙に耳に響いた。
コツコツという音と共に、ゆったりとした動きの人物が高さのある建築物内部を見渡す事の可能な空間から現れた。
それは私腹を肥やすという慣用句を体現した様な姿の男だった。

「……ホーグランド国王」
「国際連合の代表として。魔国リンドレクの魔王リンドヴルム、汝を土国王女誘拐事件、フォレストソイル第八子の王女、ティト・ブルー誘拐監禁の主犯として拘束する」

堂々とした振る舞いの国王が、建造物の底に取り囲まれ縫い付けられる様に存在するリンドヴルムを冷めた眼で見下ろした。

「ずいぶん好き勝手な振る舞いをしてくれたな、魔王よ。情報を伏せ暫く泳がせただけあって、姫の誘拐、監禁の証拠は幾らでも挙がるぞ。貴様を捕らえるための兵もこの国の者達だけでは無く、各国から軍の応援も来ている」
「尋問するとしても随分と物騒に兵力を揃えたものだ」
「自棄に陥って暴れられても困るのでな。それに……用意された国際手配書では捕獲の際の生死は問わないとの事でね」
蓄えた髭を触りながら、にやりにやりと嫌悪感の残る笑みを浮かべた。

「妾を拐かされた腹いせか。よくも明け透けに公に私情を挟めるものだな? ホーグランド国王よ」
「ふむ、なんの事やら。……その余裕がいつまで保つのかね?リンドヴルム魔王?」

「魔王様、危ないっ……!!」
咄嗟に側近が声を張り上げた。

竜撃ち弓。
放たれた闇殺の聖炎を纏った矢は、魔王の影を精確に撃ち抜いた。
強固な魔王の竜鱗は傷を負わなかった。
だがしかし、瞬く間に加護の炎は影纏いの外套に燃え広がり、強靱なマントは襤褸と化した。
効能を失った外套。
取繕う闇は消失し、魔王の真の姿が公衆の下に晒された。

なんと醜く大きい黒竜か。鋭利な鱗が恐ろしい。おぞましい。それらの事を口にしてざわつく群衆。
その中で、竜を指差し一倍耳障りに嘲笑う声が響いた。

「ほれ、見てみろ。先王の言った通りのドラゴンパピィに鱗が生えた程度の出来損ないの竜ではないか。60年経った今でも取るに足らない。大きさも伝え聞く前魔王のワイバーン魔王の3分の1にも満たない」

「翼の無い未成熟な竜、只のワームに何を恐れる事があるのか。尤もこの頑丈な防壁の施されている天井がある空間では羽も無用の長物だが」

「ぐっ……! 人間! 我を愚弄するか」

血の上った頭のまま。意趣返しに。奴に届くように。
それでも軽度の火傷で済むように加減した威嚇の広範囲な攻撃の火術を念ずる。
しかし、竜の魔法は発動しなかった。

「……っ!!」
「魔法に対し無策であるとでも思っておったか?」

魔術、魔法、秘術、それらに準ずる技術。
魔法使いを迫害した歴史を持つ大陸の国家といえ、その奇跡に肖る抜け道は幾らでもある。

この建造物の空間は人間以外の種族の力を格段に抑える効力がある。特に竜種に対しての効果は強力だ。
竜が呼吸をする様に習得する4大属性、火、水、風、土の攻撃魔法、補助魔法すら封じる強力な結界。
表向きは話し合いを目的とした呪法。平和的な竜との話し合いには必要不可欠、と。
愉快そうに喜々と種明かしをする男の様子を、魔王は凍てついた眼で睨め上げた。

「議事堂は平和な空間だと聞いたが、その様な伏せられた意味合いがあったとは知らなかった、な」

だからこそあの悪名高い宰相レドラ=スカーレットも出しゃばりの所長タイラー・マギポットも、リンドヴルムに発言の座の権利を渡すほどにこの建造物を嫌忌したのか。

「富国の国王よ。立場が違うとはいえ我と汝は、一体何が違ったというのであろうな。攫った者と繕った者。どちらも、姫を、彼女を、慰めの道具にすることしか能の無い醜い男だというのに。青色の鳥にとってはどちらも同じ存在ではないか」
「リンドヴルム――リンドワーム、長虫め。本当に貴様は目障りだ。忌々しい」

「風除けのお飾りの魔王。そんな輩には鳥すら与えるのが惜しい。先代に打ち勝ったという話も取るに足らぬ妄言なのだろうに」
その言葉を聞いたリンドヴルムの淡い紫水晶色の眼は、一瞬ぎらついた光を灯した後、濁るような黒い色を帯びた様に見えた。
其れは限界に近かった竜の逆鱗に触れ、我を忘れさせたのだった。

「おや? 気を悪くしたかね?」

「竜の属性魔法を妨げると言ったな。その言葉に虚飾などないな?」
猛り狂った竜の声色は却って静かだった。
無論その通りだが貴様何を言っておるのかと、訝しむ様に国王は首を傾げた。

「だが、それは我が一番得意とする術には当てはまるまい――」


「     」

黒竜が咆吼した。

人間の聴覚には解らぬ音だった。
それは叫びの様な慟哭に似たような音すらも混じった、奇妙な喇叭の音楽のようにも通ずるような呪文であった。

辺りを打震わしたと思うと、場の重力が波動の様に変動した。
兵士が縫い付けられたように重力の重さに耐えきれず膝を床に付けた。

「     」

酷く雨音が鳴ったかと思うと、その瞬間泥を含んだ水が建造物に流れ込む。
狂った重力によって、一点を突いたように雲に穴が開き、上昇気流から引きずり落とされた水滴が石灰色の建物周辺を穿ったためだ。

「     」

最後の詠唱を済ませ咆え終わると、竜は静かに辺りを見渡した。


「貴様っ!!一体何をした!?」
異常を肌で感じ取ったらしい血の気の多い兵士が叫ぶ。
重力増加の波が過ぎ去り、動ける様になった兵士達が一斉にリンドヴルムに斬りかかろうとした。
しかし黒竜は巨大な身体にも関わらず迅速であった。
器用に己の体を駆使してぐるりと回り、周辺を薙ぎ払うように鋭利な竜鱗の尾でもって払う。
不均一な竜鱗は慈悲の無い凶器以外の何物でも無かった。
兵士達はぬたつく泥に気を取られる暇も、呻く時間すら無く磨り潰された。
周囲が引きずられた様に赤く染まり、巻き込まれた兵士だった其れがそれ以上動く事は無かった。
圧倒的な力差を目の当りにし、辺りはシンと静まり返った。


「造作無い。ただ、我は先代を討ったニガヨモギを呼んだまでだ」


リンドヴルムはリンドワーム。ワームは脚が無い細長き生物の総称。
ワームウッドはニガヨモギ。園から追われた蛇の通る道に生える植物。
ニガヨモギは星の名前。
尤も様々な地域から文化や信仰がもたらされ、それらが混ざり合うこの大陸ではその謂れの正式な起源を知ることは出来ないが。

側近は自身を押さえつけていた兵士が呆気に取られ力を緩ませた瞬間、コートからするりと抜けだし、切り札として隠し通していた瞬間移動で振り切った。
何度か転送魔法を発動させながら魔王の元に駆け出した。もう人目を気にしては居られない。

「おい、待てっ!」
「魔王様!!そ、その術はっ!? ……その術だけはお止めくださいっ!!」

あの冷静沈着だった筈の男が。
尋常でなく声を荒げ、己の主である竜に向かってかけ寄った。
側近が意味を成さなくなった彼の影繕いの外套を引っ張った。
それでも魔王が微動だにせぬと悟ると、側近は形振り構わず必死に棘鱗だらけの魔王に縋り付いた。

「何で、何故っ……!! 冥術だなんて、嗚呼! どうして!ああぁ……そんな!」

内側に施した徴によって相当に強化されていた男の礼装が竜の刃鱗によって一部布屑に変わる。
身を晒すのを苦痛とする男が服を気にする事のない様を魔王は無表情で無感動に眺めた。

「もう、遅い。術は発動した」
「……酷い……」

絶望を滲ませながら、その場にへたり込む様に側近が崩れ落ちた。

無属性な引力術の内、冥術とも呼ばれる重力の高等術は術者に向けて幾百もの数の衛星の内一つを引き寄せて堕とす。
術者諸共全てを蹴散らす暗い術。
酔狂な魔術師が戯れに理論の上でだけで作製した魔術。片隅にしか語られる事の無い与太の魔法だ。

この星の衛星は、例外なく魔石の異性体である魔障石を動力とするヒトが造った衛星だと考古学者や魔法学者達は噂している。
古代の文明で繁栄した種族の間では魔障石と魔石は逆の意味合いの物質であったのではないかとも。
人々はそれを、衛星を、ニガヨモギの星と呼んでいる。

隕石の如く落ちてくる人工衛星。
星の持つ膨大な魔瘴石の発する魔力に狂わされ、魔法による防御は不可能な特攻となり、障壁をものともしない破壊力を持つ。
それは、魔障の気に抵抗のある種族とてひとたまりもない。

60年前、虚弱な子竜だったリンドヴルムはその術を対抗する唯一のすべとして集中的に強化習得し格上の父を討ったのだった。

「き、貴様っ!! ワームめ! リンドワームっ! ……リンドヴルム、術を止めろっ!!今すぐにだっ!! ……気でも狂ったかリンドヴルム!?」
「もう何をしても遅い。もう既に、術は、奇跡は完成したのだから」

荒れ狂う富国の王。構わずにその場から逃げ出す兵士も出てきた。

「誰に何を言われようとも。汝に、否、我以外の何者にもティト・ブルーは渡せぬのだ。どの様な悪逆を犯したとしても。それでも」

「――くっ! 魔王様っ! 星が来ますっ!!」


* * *


ここだけの話。リンドヴルム魔王が戦い慣れてなどいないのは本当だ。
あの先代魔王との決闘ですら、触れもせずに搦め手で勝利したのだ。

この術は結果的に己の命を引替えにするという。しかしそんな魔法にも抜け道が有る。
落下場所に発生する膨大な魔力に恩恵を受ける者はそれを可能とする。
歴史の中で風化してしまった幻の空間転送術の持ち主。
ただその者だけが。

「……私はまた貴方と共犯者になったのですね」

雨の音がする。
その苦き魔瘴の気を含む濁流は河川へと流れあらゆるもの汚染するのだろう。
多湿な灰色の空気は雨音と雨のにおいで全てを隠した。
その日降り続いている雨は止むことはなかった。


* * *


リンドヴルム魔王の乱心によりフォレストソイルに堕ちた衛星は瞬く間にその地を腐らせた。
一連の事件は火種となり、大陸を巻き込んだ戦争を引き起こしたのだった――

魔瘴に溢れ、独自の生態系を保つリンドレク城は籠城戦、防衛戦には頗る強い城でもあるが、今の所魔国リンドレクが相当な優勢のため、そこまで追い詰められる事は無いのだった。

意外だった事と言えば、宰相や魔術研究所が喜々とこの戦争に協力している事だ。
武器商人を抱える隣の蛮国ローレスもまた優勢なリンドレクの見方であった。

大きな戦争中と言えど、安らぎは存在する。
リンドレク城の一角のティトの部屋。彼女の唯一の居場所だ。

「ティト、我の下に寄れ。花が良く見えるようにな」
今日も今日とて彼女を喜ばせるため、床に香り付けのための生花を蒔いた。
促されるまま拒絶もせずに姫は擦り寄った。
近頃は入手も難しくなり闇市で高騰しているような代物、高級品だ。気に入ってくれるだろう。

「本当に。汝は、可愛いらしいな」

顔を寄せる。姫を傷つかせぬように優しく加減をしながら彼女の頬を撫でる。
丁寧に特別製のヤスリで磨いた鱗は毛羽立つ事も無くつるりとして彼女の柔肌を傷つけずにすんだようで安心する。

「愛おしい」

人を殺し、人を殺し、人を殺し、人を殺し――

彼ら、人間の種族の耐久を十二分にこの身を通し熟知してしまった我が肉体は、あの頃、誰も傷つけまいと行動していた我が容易に崩壊させたその身体を動作も無く抱き寄せる事が出来るようになったのはあまりにも皮肉的だ。

「リンドヴルム、鱗が剥げて……怪我をしているみたい」
目敏く彼女は魔王が戦闘で負った小さな傷口を見つけた。
「なに、ちょっと出先で犬に食われたまでの事」
「大丈夫なのですか?」
今気付いたとでも言うようなリンドヴルムに対し、ティト・ブルーは傷の具合を確かめるように労るように触れた。
「もう大部分が塞がっておる。そのまま触れていてくれ、落ち着く」
姫は優しく、そっと羽のように傷跡を撫でた。

「そうか。鱗の無い肉の部分だと汝は触れる事が出来るのだな」

人の肌は温かい。好ましい。
ティト、汝が人形で在るだけの存在でも我は構わぬ。
受容しないというなら。我が注ぐだけ。
心がないというなら。寄り添うだけ。
汝は暖かな肉を持つ存在でいてくれれば良い。
体温の暖かさのみを共有する。
残った彼女の器にしがみ付く我は情けない存在だろう。
しかし、只其れだけでも良い。何も知らなくて、良い。

「リンドヴルム? ……どうされました?」
「何でもない、少しばかり汝の解らぬ事を考えていただけだ。もっと触れても、よいか?」
「ええ」
穏やかで優しい、まるで幼子の母の様な声を聞くと偽りでも幸せな気分になる。

布越しに柔らかな豊かな胸に顔を埋める
竜の唯一に近い柔らかな場所であろう粘着質の舌を彼女の清い肌に滑らした。

「どうされたのですか、今日はこんなに甘えられて」
「何でも無い。無性に寂しくなっただけだ」
「……そう」

淡い紫色の竜の瞳から漏れる仄かな不穏さを、姫は気付かないふりをしながら魔王に身を委ねた。

魔王様は今日も小鳥と戯れる。


 【END2 魔王様の小鳥】



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